キャリア開発史

「八重山群島遠征報告」を読む

 遠征は、計画書に始まり、報告書に終るのが常であるが、報告書は現在の情況では、もっぱら「出すこと」に比重がかかりすぎていて、「読むこと」をおろそかにしている面があるようだ。遠征の結果を盛りこむ報告書を読み、討論することで、遠征の真の意味での総括が期待できるのだと思う。ここでは、『八重山群島遠征隊報告』(1971年 九大探検部)を読み、八重山群島遠征の総括の一助としてみたい。「趣旨」によると明らかに二つの大きな問題意識がうかがえる。一つは「主体性の問題」であり、一つは「探検される側にとって」である。学術探検を「主体性の抑圧者としての学術調査」という言葉で批判している。この隊は、出発前に個人的計画書を提出し、遠征終了後に個人的総括を提出した。個人的な計画書と総括の双方を含む「報告」を読むことで隊の表情がうかがえるだろう。

 さて一口に「主体性の問題」とはいっても隊員各自の考え方はどうであったのか。「主体性の確立」(久恒)、「主体性のない人間」でない自分をつくる契機(三浦)、「主体性の確保」(友清)、「主体性の発揮」(田中)、「非主体的かつ受動的な性格の克服」(山田)、「主体性の尊重」(内野)、が報告書の中に登場した言葉である。大勢は、個人の主体的な行動の構築をめざすものである。隊の計画書には「主体性の抑圧者としての学術調査」という言葉がみえるが、これは個々人にとっての言葉でもあるが、又、部全体の流れに対しての批判でもあると思う。探検部自体の主体性(つまり、O.Bや顧問の先生方に対して、学生としての主体性、又他大学探検部に対しての主体性)を問うていたのではないか。私達が出発前、O.Bや部員全員と幾度も討論を重ねたのも、部自体の主体性の問題がその大半を占めていた様に思う。公的な計画書の中の問題を私的な問題へとスライドさせた時に、やはり私次元の問題のたて方を可能にしたと言えよう。

 さて、個人的報告書にみる隊員の意見はどうだったか。田中は、成功・失敗の速断を戒め、いかなる場合にでも失敗を防ぎうるのは「問題の切実さ」にあると言っている。彼の報告書の調子には「満足」という言葉が見えるので、彼が自分に課した課題(「体力・精神力・技術」を身につけ、隊員として全ての責任がとれるようになるため基礎的なものを充実させる事)の遂行は、「切実さ」の意識のもとにかなりの程度なされたのだろう。「問題の切実さ」とは、問題に対する主体性の有無と考えても良いと思う。森山は、語る時の的はずれの独断的なものの言い方とは異なり、的を射た言葉で遠征をふり返る。「主体性ということが、抽象的・観念的に叫ばれていた。」「主体性ということが具体的にはどういうことなのか、主体性はどこまでみとめられるべきか、についての議論がなかった。」部の流れに対しての批判は、(これは最も強烈に押し出されたものだ)当然、学術探検オンリーに対する批判になるのであったから、抽象的な表現を使用しなければならなかっただろう。ここで森山が批判しているのは、そういう次元ではなくて、"遠征を創造する"という場合にかける具体性の要求であると思う。批判の言葉としての主体性ではなく、創造、実行の有力な武器としての主体性という言葉の使用に対する疑問だと思われる。隊と個との関係、ということを言っているのではないか。田中の危惧「まったく自由に、何もせずにいるという悪い面がでてきはしないか」、この不安は、「自分の計画したことをやらないものまでいた」(森山)とあるように、ある程度現実化したわけだ。とすれば、隊の構成の根本的な問題である、隊としての一体性と個の主体性の発揮という問題に対する試みに対して明確な解答を引きだすことができなかったのではないか、とも思えてくる。"ゆるやかな集合体"を目指した我々は、集団維持のための約束ごとは、共同生活を送る場合の心得だけだし、リーダーは生活上の障害をとり除くこと、夜警なみの役割程度だと認識していたのは甘かったのだろうか。一年生部員に登場願おう。報告書には、一年部員の報告はあるが、本心を吐露したものは少ない。内野は自他共に認める「カミキリキチガイ」で、その報告、植生の報告もあり、明確な目的意識を持ち行動していたとみてよいと思う。気になるのは友清の報告書である。「私の場合において………当初からその様なもの(今隊の目的)は、この世に存在しなかった。」「失敗に対する処方もわからず、半分ヤケっぱちで半分居直っている。」これを一年生部員のある部分の代表と考えてみよう。彼等の場合においては"三年又は二年のイニシアチブのもとに計画された遠征"という意識があり、(三年・二年が一年をまきこんで討論したと思っているにせよ、だ。)「問題の切実さ」は、この遠征の与える影響が、さきざきの部生活、ひいては人生にまでも少なからぬものを及ぼすであろうと予感していた二・三年生部分よりは希薄であったのだろうか。とすれば、反発は、二・三年生部分にとっては、有カな反省の契機となろう。松岡・藤田・福山・松尾が、いわゆる内面的な報告書を提出しなかったのはそれなりの理由があると思う。「合宿全体についていえば、だいぶしらけていたし、皆非協力的だったと思う。」(浜本)というのは、遠征中の行動に対する感想であるが、これは遠征全体に対しての批判の表面的な一角であるのかもしれない。遠征の評価は、肯定的にせよ否定的にせよ、率直に展開してほしかった。「問題の切実さ」から言えば最も苦しんだのは馬場だったと思う。報告書の中にあらわれた文章には心打たれるものがあった。部のマネージャー、隊のサブリーダーという最も難しい立場にあった人間の率直な回想だ。私は彼の報告を読んで八重山隊の総括集を肯定したくなった。このような報告を出した彼を評価したいと思う。又このような報告がでることが、八重山隊の価値の一つなのではないかと思う。山田は、「疑似計画書」を提出した。この「疑似」を入れるところが彼らしいところで、批判でもあるのだろう。脱アウトサイダーをめざす山田の計画は、「遠征隊=私として実行」「探検とのかかわりあいの可能性の模索をこころみる」「指針が与えられるだろう」だ。報告は、アカマタについてのものが全てで、計画の実行の具合はわからないが、それは胸のうちにあたためておくのであろうか。次に三浦はどうか。「主体的な人間となるきっかけとして探検部活動を考えたい。」「自分の世界を拡大する、自己の将来について真剣に考える一助としたい。」これが計画の中にみえる三浦の探検観である。報告の中には計画の時ほどの意気ごみはみられないが、「相当無理な理屈をこねていた」にはしても、その方向をとりつづけるであろうと思う。

 以上をふまえたうえで私は次のように考えたい。九大探検部における"主体性論争"は、学術調査志向の客観的価値(科学的発見、真理の探究等)を重視する人々、あるいはそういう部の主流に対する反対宣言(学生クラブとしての探検部の在り方を考えた時の)であった。"主体性"ということを問題にし、かなりの部分に、それについての考えの表明を迫った八重群島遠征は、今になってみれば、おそらく探検における主観派宣言だったのだと思う。この世界を自らの体験でとらえたい。人間としての自分の存在を証明したい。人間としての自分を回復したい。何でもみたい。何でもやりたい。主体性のある人間になりたい。自分を確かめたい。そういう願いを実行に移すこと、そのことに価値を見いだす人間は俺達であり、これからもその方向をおそらくは進むであろうという宣言だったのではないか。

 さて例の二つ目の問題点、「探検される側」についてだが、報告の中には、この問題に対する見解は、森山の意見………離島での閉鎖的な祭りを広報することは良いことなのか? 友清「たとえ、沖縄が日本の手に戻ろうとも、沖縄人をみるあの視覚の本質が変らぬ限り、真の返還はあり得ぬ」くらいが目につく程度で、私の意見も未だ一般論の展開をするにはいたらないので次の機会にゆずる。

 私自身について少々述べてみよう。方法やものをみる眼の未熟さという面からは、反省すべき点が多いが、自分の作った計画の実行の程度については不満はない。「沖縄の離島」「鳩間島の豊年祭」「奄美・八重山の方言」についてはさておき、「探検について」の項をみてみよう。今回のリーダーという役割については「隊を出発の状態にまでまとめあげること」を主眼としていた。鹿児島港での乗船手続完了時に「遠征99%完了」と私が言ったと記録にあるが、そういうことだったのだと思う。「部と私とのかかわりあいを重視する」とあるが、やはり、立場が考えを強制するという面もあったのかもしれない。今は、過去のそういう自分を客観視できるが、完全な個人としての自分に眼が向いてきたようだ。「創造と文流の相互作用のった中における実存の発見」(発見、そして確認か)が、部の私にとっての意味であった。これはたしかにそうで、集団の中の自分に興味があった。capをやめて一年にもなる今、自立した個人としての自分にとって、探検という言葉の意味が少し異なってきたのかもしれない。部との関係の強烈さが消え去った今、社会にでる(就職する)自分がどのような探検をやれるのかということが問題になってきたようだ。私の今夏(72年)の1ヶ月のヨーロッパ旅行は、探検部生活の総決算であったし、その問への一つの大きな試みであったのだが、今はまだ総括をするところまできていないので次の機会にしたいと思う。

法学部 4年 久恒啓一

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