横松宗氏の自叙伝(未完)を読む  邪馬台 73号(1984年冬号)

 昨年、著者から自叙伝執筆の意向をうかがっていた。それで、「邪馬台」に「一九四九年上海」が掲載されたとき、これは、自叙伝の「部分」だとすぐ感じた。
 終戦間近い上海で、魯迅との運命的な「出会い」が行われる。戦後、著者の行動の原点となるこの出会いは、著者の生涯の中で特筆すべき重大な事件であったと思う。戦況が悪化するにつれて、官僚化した職業軍人達の戦争見通しは乱れる。言動の端々に醜い打算を露呈する彼らを見るこの人の目はきびしい。あるいは東京出張の合い間に、純正右翼といわれた大東塾の影山正治にあって、ある種の感動を覚えた著者は、金権右翼児玉誉士夫の行動を執拗に裁く。ここには、思想の立場を超えて純粋を志向するこのことの志を見ることが出来る。敗戦がおとずれた時、日本人の一人として深くうなじを垂れるが、勝利に酔う中国民衆の姿を見ながら、一人、新時代の到来に胸をときめかす著者。それにしても、管理する倉庫を暴徒化した民衆が襲ったときの判断と対応は見事である。在中国日本人に対する国民政府の扱いが公表された時、その儒教的寛容に敬意を表しながらも、その背景に東西の対立・内戦の将来を見る知性は失わない。その時期上海での数々の体験が三十才を過ぎたばかりの著者にあたえた影響の大きさが想像される。「上海」が、「部分」として最初に書かれたのも訳のあることだと思う。
 七二号の「蜉蝣の大正デモクラシーを生きて」は、将来、自叙伝の頭になるものと思うが、「序章」の生命の根源についての考察部分はとりわけ面白かった。ここでは、芥川の「河童」の出生問答が引用される。出生、生命の根源についての思索がなければ、人生観、世界観、思想の形勢などは考えられないからだろう。「出生」など、人間の存在そのものに関わる言葉は、その語源まで遡って、検討することが必要となるが、中国の古典・国語・英語による考証が行われて読み応えのある箇所である。
 著者はここで、「人間は何物かによって生かされる。神の恩寵によって生を受けているといってもよいと思う」と一応結論を出すが、そのあとで、「神ということばは他のことばにおきかえてもよい」とつけ加える。さりげなくつけ加えられたこの一行に満たない言葉のなかに、横松宗という人の思想の本質を説く鍵が秘められているのではないか。
 第一章で出生から少年期のことが語られる。明治維新から半世紀を経て大正期でも、旧城下の中津町は旧士、工、商、近郊は農という住みわけには大きな変化はなかったようだ。城下に生を受けた著者は、南部小学校に通った後豊田小学校に転校することになるが、城下と在の社会構造の違いが子どもたちの意識に投影され、会話のやりとりやからみに興味があった。生母が誇りにしたという系図の話と、もともと系図買いに始まる一種の神話にすぎないとこを究明するあたり、父母や周辺の人を回顧する目は終始あたたかい。
 大正デモクラシーは、この地方の町にもそれなりの花を咲かせるが、経済恐慌の巨大なうねりの中でたちまち立ち枯れてしまう。著者はここで「家庭没落」の挫折を経験することになる。治安維持法制定後、軍国主義の抬頭から十五年戦争への道は一筋道である。この暗い時代を、後に、魯迅の「原体験」に共感するこの「没落家庭の子弟」は鬱屈した青春を生きることになるのだろう。
 この章の中に、注目すべき記述がある。「後に私に何か良い兆しの予感があったとき、よく夢の中で夜半陽光が指しこんでくる光景を見るようになったが、これは母からくりかえし聞いた生れたときの光景が私の心の奥に強くやきつけられていたからにちがいない」と。
 ここには、著者の「原風景」が画かれているのではないだろうか。そうだとすれば、「原体験」の悲惨に較べて、この「原風景」は、何と神秘的で、希望感に満ちたものであることか。
 自叙伝の完成の日が待たれる。
 
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