キャリア開発史

軌跡 九大探検 vol.4より 1972〜1973年

 大学2年の夏、私は、九州大学・長崎大学合同奄美群島学術調査隊の一員として奄美に一ヶ月滞在した。私の所属する探検部というクラブの夏季合宿なのだ。一年の冬に入部した私にとって初めての大きな合宿だった。
 生物班、diving班、風葬班、caving班と分れた中のcaving班(洞窟班)の一員として、私は一ヶ月もの間各島の鐘乳洞の調査にあたった。両大学の教授2人を上にいただいた合宿は、調査面においても、又考え方や人生観の面においても私のそれからの大学生活に多大の影響を与えたようだ。南国の強烈な太陽の照りつける昼間、私達は、猛毒を持つハブの住むといわれる洞窟の入口を注意しながら、一日中涼しい、時には寒い位の洞窟の調査を行った。へルメットをかぶり、自動車整備工の制服を着て泥まみれになって、狭いジメジメした鐘乳洞を探検した。
 私はその中で、自分がやりたいのは何なのだろうか?という疑問にぶつからざるを得なかった。何でもやってみようと思い、夜は民家を訪ねて方言の採集をやってみた。奄美大島・喜界島・徳之島・沖永良部島各島の方言を採集しその比較を試みてみた。

 私はその中で、採集自体よりも、それを通じての島の人達との交流の方に楽しさを感じていたようだ。大島では宿舎であった西仲間の公民館に遊びにくる日焼けした子供達を集め方言を採集したり、いろいろ話をしてきかせたりそれは全く楽しい日々だった。今や標準語教育の徹底の中で失われてゆく奄美方言、私は子供達が語った言葉を忘れることができない。「先生がこう言った。『学校では標準語を使っても、奄美方言を忘れぬために、家では方言を使いなさい。』」
  探検という言葉を用いるクラブの一員である私は、離島や辺境に足を向けることが多くなるのであるが、人々との接触の中で、なぜかこの言葉が浮かんできてしまうのをどうしようもない。日本本土から遠く離れた離島の人々の生活のひたむきさを感じる。
  diving、風葬のガイコツ捜し、泡盛りを飲んでうたった夜、どうやら秋には、私は、クラブを続けようか、やめて司法試験の勉強をしようかという迷いに結論を出していた。
  秋・冬・春と、スキーや山の縦走、cavingの活動に専念する自分を発見していた。
  奄美から一年後の夏、私は八重山群島遠征隊を組織し、沖縄の中の辺境である八重山群島にいた。この遠征は、今までのクラブの主流である学術調査を批判し主体性をとり戻そうというものだった。そして探検される側にとって探検とは何か、その問の提出。奄美でぶつかった問題、喜界島の水源の発見は、この島にはかり知れない収入をもたらすため、島の人達の念願でもあった。調査するということは、現地の人から何ものかを奪うということなら、何か役に立つことをしてあげるべきではないか。
  私は、本土復帰を控えたしいたげられた沖縄、そしてその沖縄の中でも辺境として顧みられることの少ない八重山群島の離島の現状をレポートしたいと思った。教育面、衛生面、過疎問題等を調べた。八重山の中心である石垣島の高校へ行くためには、与那国の人はどうしているか。金がいる。働き盛りの人が一緒に小さな船で10時間もかかる石垣島へ出てゆき、働き金を工面するのだ。そのため、与那国島は空き家が多く、老人が多く、過疎化の急速さには手の打ちようがない。工事をするにしても、資材が届かない。シケがあれば10日以上も船がこない。テレビは一日遅れだ。日曜日に、相撲の14日目をやっているし、新聞は三日に一度、水道もない。収入もキビや漁業の低収入。善意の医師による治療、その医師も死んだ。周囲3Kmの鳩間島では五百戸もあった家が、今や総人口67人だ。店は2軒しかないし、ちょうどこの年の夏は、数十年来の水不足で、島民は交代で小さな舟で水をもらいに他島まで行かねばならなかった。八重山保健所の話では、やはりバセドウ氏病やトラホーマやライ病も多く、衛生面でも本土よりかなりおとる。医師の絶対的な不足、身入りの悪い離島には見向きもしない。本土復帰をしても、本土に近い方から医師を充足するので見通しは暗いということだった。患者と行政府の板ばさみに苦しむ公衆衛生看護婦。又、屋久島や奄美の与論島にみる観光開発による環境破壊、これはもはや本土復帰を控えた八重山の運命であるかもしれない。
  沖縄では当時“円”ではなく“ドル・セント”だった。沖縄の人は、50セントのことを50セン(銭)という。考えすぎかもしれないが、沖縄の立場をきわめて鮮烈に表わす言葉ではないか。人口67名の鳩間島の豊年祭。この日はこの島出身で他島にいる人達が帰ってくる。人口は一挙に3倍にはなっただろう。郷友会という青年の団体が石垣島にあった。豊年祭の練習をやっていた。故郷を守ろうとする人達の地味な活動だ。この日、島は一日中飲めやうたえの大騒ぎとなる。ハデな装束をつけた若者達の剣舞は、その迫力においてすさまじいものがあった。綱引き、はりゆう船の競走。全島あげてのお祭。
島の人達は年に数回、こういう集いを持つらしい。
  私はこの祭の起源や形式を調べたのだが、そういうものより、故郷を愛する人達の心の方に打たれたようだ。私はこの隊のリーダーであったので、20日間かなり緊張して過ごした。
  隊の解散後、私は、高校時代の友人U君と待ちあわせて、二人で台湾へ旅立った。気ままな旅だった。初めての外国だ。日本語の通じないところへ行ってみたいという単純な願いからだった。台北、台中、花蓮、の二人の、あるいは一人の旅は実際愉快だった。台湾の人は親日的であったし(ちょうどニクソン大統領の訪中発表の直後であったが)少し年配の人は、なつかしそうに日本語で話しかけてきた。学生達とは、慣れないへタな英語で意思を通じあうことができた。台南で数学を教えているという24オの若い教師、兵役があるそうで帰ったばかりだと言う。日本の学生は幸せだなあと思い、憲法9条にちょっと感謝。彼は私達を豪華な酒店(ナイトクラブ)に連れていってくれた。ニクソンの訪中をどう思うかと問われた私は、中国は国連に加盟すべきであり、訪中は良いことだと思ってはいたが、思いつめた眼を向ける彼にそうは言えなかった。台湾は、唯一の中国だ、などと後ろめたさを感じながらも言ってしまった。ウソをついては真の対話は生まれないとは思いながらも、そうとしか言えなかった。
台中でホテルを経営する実業家。彼は日本人学生の外国旅行を評価していた。日本人は“考験”しているのだと彼は言った。経験して考えるというほどの意味だろう。台湾の景勝地もかなり見たが、景色なんぞは、人の足を長く引きとめるのに役は立たない。人間や文化の方に興味を引かれる方の私にとって、台湾の文化状況、経済状況は考えるに足るものをみせてくれた。

 巨大化した日本経済の東南アジアへの進出が盛んに問題されていた時期であったが、まさにすさまじいものであった。テレビ(電視台)は日立・サンヨー・ソニー・ナショナルだし、自動車はトヨタ・ニッサン、クスリはアリナミンだ。まちでみるものの中から日本製品でないものを捜す方がむつかしい。映画は、とみると、座頭市や高倉健、そして人気のある俳優は、吉永小百合か、台湾出身のジュデイオング、野球の怪物王、碁の林海ほうが人気があった。日本の製品は高い。五万円のテレビは台湾では20万円もするのだそうだ。テレビやラジオから流れてくる歌を聞くとこれまたビックリする。長崎は今日も雨だった、が流行しているし、恍惚のブルースなど全部が日本の歌謡曲だ。台中で知り合った電話交換手の20才の女性(彼女の父は日本人だそうで、日本語がかなりうまい)は、ラジオの歌が皆日本のだというと、 「これは、台湾の歌よ」といった。それはフランク永井の君恋しだったのだ。私達がそう言うと彼女は悲しい顔をした。私はすまないような気がしたが、反面少し得意にもなっていたようだ。タイの排日運動が盛んになり、日本人の海外での姿勢が問題にされている。台北のまち中でみた伝統的な演劇、孔子を祭ってある廟なども、日本文化の圧倒的な攻勢のもとでは風前の灯みたいな気がする。この情報化社会の中で、テレビの持つ役割は不気味なほど大きいと思うが、台湾でも日本の現代文化(いわゆるエロ・グロ・ナンセンスを含めて)がテレビ・ラジオというメディアによって台湾人に浸透していくのだ。タイでも子供達の人気の的は、日本の柔道や剣道のドラマだと聞くし、不気味なことだ。文化攻勢を伴う経済的進出あるいは侵略。国民相互の付きあいも結局は一人一人の問題なのだ。私は、日本人として他民族との付きあいの方法を模索したいと思う。
 今日の様に年間百万人以上の人が世界に旅立つ時代だが、国と国との関係も、基本は、個人と個人の付きあいの集積だ。台湾旅行は、私自身に台湾人に対するかすかな傲慢さに反省の機会を与えてくれたし、異民族との交流を考える上に役に立ったと思う。又台湾の政治状況、これも複雑だ。台湾土着の人々は、本土からやってきた蒋介石一派を憎んでいるし、蒋介石の言論統制により人々は赤い中国の現状をほとんど知らない。ある大学生は私に、中国のことをいろいろたずねた。彼は言った。(I search for truth)“ボクは真実を捜しているんだ”その言葉には強さがあった。日中国交回復がなされた今、台湾の人はどうしているのだろう? 登山や鐘乳洞探検、ダイビング、ちょうちょとり、確かに面白いし、やりがいもある。だが、私はこの頃どうやら、海外への旅に興味を持ちだしていた。外的世界の拡大とそれに伴う内的世界の質的変革、この言葉がこの頃の私の心を占めていたようだ。
  そして去年の夏、(4年生)、就職のきまった私は、30万円の借金をして、ヨーロッパに行った。クラブのY君と一緒に、スペイン・フランス・東西ドイツ・オランダ・デンマーク・イタリア・スイスを1ヶ月で回った。一昨年の台湾旅行が文化的にも経済的にも日本の植民地状況にある外国の旅行だし、言葉にしても日本語も結構通じるし、体格、顔立ちも我々と大差ない、いわば、準外国であったのに較べて、ヨーロッバは私に新しい世界と体験を与えてくれたようだ。もし文明度というものがあるとすれば、それをはかる一つの基準が、人命の尊重の程度とみることはできないだろうか。スペインの車は乱暴だ。人間よりも自動車の方が優先らしいのだ。私はふと台湾を思い出していた。台湾の車の乱暴さはひどいものだった。台北市内はよほど慎重に歩かなければ命をおとすことになる。人間は車をみると逃げねばならないのだ。フランスやドイツでは身の危険はさほど感じなかった。そして日本はどうか、やはり危ないけれども大方のところは信号を守っていれば大丈夫だ。文明度の基準として、人命の尊重の程度を考えるとこうなる。フランスやドイツは高く、日本はそれに次ぎ、つづいてスペインそして台湾。公害や戦争という面、堕胎や殺人という面からもこの文明度を比較できないだろうか。一つの基準を設けて比較するのは面白いことだが、私は、アメリカ資本主義の代表であるコカコーラについて面白いことを発見した。コカコーラの値段が国によって全くマチマチなのだ。スペインでは1リットルビンが百円、なのにフランスでは200mlでも百円を超したりする。このコーラの値段は、関税のこともあるだろうが、基準となるものは何なのだろうか。台湾では飲む人が少ないのに高いし、デンマークでは、1リットル入りが百数十円相当。今や多国籍企業として世界を制覇するコカコーラには、世界の中での各国の実力や価値をはかるものさしがあるはずだ。そんなものを知りたいと思ったりしたこともあった。
  ヨーロッパでは毎日Y君と気づいた事柄について討論をした。大都市の比較や民族性や合理主義や、幸福度やなんかについて、だ。その中の一つに福祉国家があった。今日本では来年度予算の編成が話題になっている。来年度予算の目玉は“福祉”なんだそうである。福祉国家という言葉は、今や完全に市民権を持ってしまった。その手本は北欧のスエーデンやデンマークらしい。デンマークの福祉はどんな状態か。私とY君は、コペンハーゲンの郊外のアパートに民宿をすることになった。デンマークでは、生活のあまり楽でない家庭が、旅行者に一部屋貸し生活費の一部にあてるという制度があるのだ。ほほう、でも福祉国家だから生活は楽なはずだがと思ったりした。私達の入った家庭には、30数才の未亡人と2人の子供がいた。いいオバさんで私達の質問にはこころよく答えてくれた。会話は同程度の会話力のある英語。この家庭は、奥さん一人が働いているから、デンマーク人としては裕福な方ではないと思う。収入は15万円だが、税金はなんと45%とられるそうだ。住居はアパートで3部屋とキッチンで、5人家族としてはかなり広い。住居費はかなり安い。物価は高いが、スーパーで買い込んでくると安くあがるのだそうだ。住宅は日本よりはかなり良いと思う。バスは老人だらけ。ジイジイバアバアの国だ。老人達のためのドライブタイムというのがあって、ほとんど無料で乗れるそうだ。コペンハーゲンの中央にチポリ公園というのがある。ここでも老人への配慮がみえた。入場料は若い人には高いが、老人達はごく少ない料金で入場できるのだ。公園は、素晴しいイコイの場所なのだ。ヒマをつぶすための遊び場所も豊富だ。北国は太陽が少ない。この日射を求めてこの国の老人達は公園に集まる。日光浴、平和な風景。この国では65才になると働くのをやめる。国からの年金が、かなりの額もらえるのだ。日本の老人問題が、住居や金の面で悲惨さを帯びるのとは異ってこの国の老人達の生活は安定している。老人達の多くは、郊外の老人ホームで共同生活を行う。「老人達はしあわせですねえ。」とおばさんに言うと、「そうは思いません。老人ホームでは毎日毎日人が死にます。老人達はその淋しさに耐えられないのだそうだ。老人の幸福は、家族と一緒に暮らすことです。」という。この家庭も、おばあさんは遠くにいるということだ。経済カがあれば一緒にくらしたい様子だった。日本では核家族化の進行により、老人は家族と一緒にくらす機会が少なくなったと言うと、それは不幸なことですと彼女はのべた。実感的な重いひびきを持つ言葉だった。

 ある日私はY君と観光バスに乗っていた。観光バスは性に合わないけれども、この国の誇りである“福祉コース”なのだそうで少々高かったがのることにしたのだ。このコースの名称は格調高いものだった。“World of Tomorrow”(明日の世界)。この魅惑的な名称に心を踊らせながらのりこんだ。老人ホーム、幼稚園、学校。バスの解説者は若い青年で、すごい雄弁家だ。この1ヶ月の間に若干の自信をつけた英会話だが、痛い経験だった。全く理解できないのだ。細々した単語をつないでゆくと、この青年の自国の福祉に対する自信は相当なものだと思った。近代的なビルの中の保育園設備が良いという程度か。子供達の遊び場を占領して説明をきく。次は小学校。立派な学校だ。青空教室もやっていた。設備はきわめて良い。次は老人ホーム。老人達は共同作業場で工作や編物をやっていた。それを見守る職員、そして観光客のアメリカ女性の老人達を見る眼は、“ほほえましいわ”とでも言っているようだ。当の老人達は、我々侵入者には見向きもしない。腹立たしさに耐えているかのようだった。私は早くこの場を出たいと思った。みせものじゃないか。率直な感想。これが World of Tomorrow か。貧困な未来だ。おおげさなタイトルだ。これ位の施設は近い将来日本中にできるだろう。だが福祉とは設備をつけるだけで良いのだろうか。 確かに日本より良い。経済的に不安定な日本の老人よりは幸せだろう。だが日本の場合も設備はもちろんだが、その先の事を考えねばダメだと思う。
 福祉国家は、パイを等分に分けることだと思う。日本での分配の不公平さは眼に余るものがある。パイの大きさを拡大しつつある日本とは逆に、パイの大きさの限界のあるデンマークはどうなるのか。日本については次の様に推論てきまいか。日本が政治の方向を福祉という面にむける努力をするなら、この北欧の自慢の社会保障を抜き去ることは容易だろう。現に、北欧諸国は経済の成長はきわめて鈍い。先の円切り上げの時もドルに対して切り上げたのは北欧ではスエーデンだけだ。パイの大きさが小さければ必然的に平均的に貧しくならざるを得ない。World of Tomorrow の国はすでに World of Yesterday の国へとなりつつあるのだ。日本が福祉国家への道を歩むことは歓迎すべきだが、福祉の中味をよく考えないととんでもないことになる。人間の幸福とは一体何だろうか?
 私の大学生活は、悔いのないものだったと言って良い。この四年間大きな比重を占めたのは探検部での生活だ。私はここで成長してきたし、私の人生のこやしとなる人を、多く得ている。私はここでの生活の中で、人間集団の一員として社会との接触、いわゆる社会性を獲得してきた。クラブにおける様々な行為(合宿・遠征・雑談・コンパ・討論・etc )は私に、創造と交流における実存の発見、確認、そして社会性の獲得をもたらした。「探検部は、青白きインテリを否定し、体カ・精神力ともにタフな行動的人間を養成する。」という言葉は、私が「学生案内」に書いたものだが、そういう人間をめざして動いてきたのだと思う。
  さて、ここまで私は自分の大学生活の軌跡をたどってきたが、4年生になって就職という問題にぶつからざるを得なかった。就職、現代の学生にとって、この言葉の持つイメージは明るいものではない。壁、敗北、という感覚を持つ人が多いのは事実だと思う。私にとっても明るさだけではない。「就職を機会に探検から足を洗う」という人もいる。それで良いと思う。だが私は、その方向にそった人生を送りたいと思っている。探検、旅行、海外、といった類の言葉と少しでも関連のある職場につきたかった。それなら自分も納得できるし、企業の規律もガマンできると思う。私は将来、世界をとびまわりたいと思っている。就職は企業との取引だ。私は、以上のような意味で、将来は月にも行けるかも知れない航空会社を選んだ。私は、民族や国の比較、文明の比較、政治の比較などを勉強したいと思う。今はまだ模索中だが、自己存在のあかしとしてライフワークとでも言えるものを作ってみたい。私は、知的好奇心を失いたくはないし、就職しても考えることを大切にし、自分の人生を大切にしたいと思う。

(法学部 4年)

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